レバノン料理店「シンドバッド」

( 電話: 03-3343-3783 )

---もっとレバノンを知ってほしい---

レバノン料理の写真[jpg:49kB]

高層ビルの立ち並ぶ新宿副都心。新宿アイランドタワーの地下一階に、レバノン料理店「シンドバッド」がある。社長はレバノンの人、ジョー・アブハッサンさんで、おもに現場をとりしきる。妻の仲島洋子さんは経理から営業、その他の雑用を一手に引き受ける、いわば裏方役だ。

「シンドバッド」は、日本ではじめてのレバノン料理店として、4年前自由ヶ丘にオープン。3年前からいまの場所に移った。あまりなじみのないレバノン料理だが、野菜や豆をふんだんに使い、あっさりした味でヘルシー。日本人の口にも合う。ランチタイムや週末は、たくさんの人でにぎわう。


自分の力で仕事をしよう、それには外国だ----25年前に、仲島洋子さんはそう決心した。グアムやサイパンに行く客船のスチュワーデスをやめ、ウィーンの日本料理店に勤めることにした。事務職として2年間の契約だった。ドイツ語にいまひとつなじめず帰国。こんどはカナダのやはり日本料理店の事務。移民ビザの取得が条件だった。必死に勉強した。オタワで、ジョーさんと出会った。ジョーさんは、レバノンからの留学生だった。
レバノン。地中海に面して、砂漠がない。中東のスイスといわれる風光明媚な国だ。首都ベイルートから北に80キロの港町がトリポリ。ジョーさんと洋子さんは結婚式を挙げるために、カナダのオタワからジョーさんの両親が住むトリポリに到着した。

わずか1週間後にレバノン内戦。家を焼かれた親類がかけ込んでくる。道路は閉鎖。銃を構えた人が町のあちこちに.........。市内もやがて危なくなる。郊外にやっと二間の借家が見つかった。一間は鶏小屋で、そこが二人の新婚の家だった。

郊外でも爆弾は落ちる。いつ死んでもおかしくない。二人は陸路シリアに逃れた。「結婚のためレバノンに行った」ことしか知らない洋子さんの実家から国際捜索願いが出されていた。シリアの日本大使館の計らいで、ジョーさんは大使館に勤務。洋子さんはひとまず日本に帰ることにした。1977年のことである。


周りは、シリアに戻ることは大反対だった。洋子さんは迷った。自分の人生は自分で切り開こう----ジョーさんの待つシリアに戻った。やがて出産のため、二人はトリポリへ。落ち着いたとはいえ、内戦状態は続いている。子どもを抱えたまま、飛び交う銃弾の中を逃げ回ったこともある。

ジョーさんはホテルマンとして家計を支え、洋子さんは家庭を守った。たくさんの知り合いが傷つき死んでいくなか、両親は日本からの嫁になにかと尽くしてくれる。7年が過ぎた。

内戦は最大規模に達し、洋子さんは政府の勧告もあって、二人の子どもと日本へ。帰りの飛行機で偶然出会った人がレストランのオーナー。ご主人と働きませんかとの言葉に、半信半疑で尋ねてみると、ほんとうだった。

ジョーさんがコック、洋子さんがウェイトレスの共働きだった。オーナーはジョーさんのホテルマンとしての力量を見ぬいていた。快く転職の相談にも乗ってくれ、ホテルの営業マンとしてジョーさんは再スタート。

10年間は必死で働いた。二人のおもいは、レバノンのことをもっと知ってもらいたいこと。その第一歩が、レバノン料理店だった。


昨年、洋子さんは、ある異業種交流会に誘われた。一生けん命、「シンドバッド」の宣伝をした。何人か、お店へ来てくれた。話すうちに「あなたの話をみんなにしませんか」と請われた。

好奇心は強く、人間は大好き。だけど人前で話すなど............。ためらったが、もっと「シンドバッド」の宣伝ができる。レバノンのことを知ってもらえる。引き受けることにした。口コミで、あちこちから声がかかるようになった。

今年は、自らが主催して「倶楽部BEAT」という交流会を始めた。会場はもちろん「シンドバッド」。50人もの仲間が集まってくれた。

若いころは、どうすれば自分が成功するかで頭がいっぱい。内戦の経験がなかったら、イヤな女、オバさんになっていたでしょうね----山ほどの人知れぬ苦労を、おくびにも出さずに笑う。

「ジョーはやりたいことがたくさんあります。浪花節のようですが、ジョーを男にすることが私の務め。あんなによくしてくれたジョーの両親のためにもと思っています」

夢の実現に、洋子さんは一直線だ。


以上は、「暮らしの手帖」第73号(平成10年3月25日発売)に載った記事を、主人公仲島洋子さん及び出版社のご了解を得て全文掲載しました。