君子とその道

論語には「君子」についての話が多い。「君子」とは王様と言う意味ではなく、「人間の生きるべき道を体得している人」と言う意味だ。君子でない人を「小人」という。「女子と小人養い難し」と言う言葉もある。孔子も今生きていたら、セクハラと言われそうだね。
ところで「君子」とは何か。先にも述べたように「人間の道を体得している人」なのであるが、論語には君子はこうする、ああする、という話は沢山あっても君子とはこういう人だという明確な定義はない(と思う)。いうなれば「君子」はデフォルト(無定義語)の扱いである。

ところが面白いことに、君子の定義は老子に出ている。老子と孔子とでは別学派で、勿論老子には「君子」と言う表現はしていないが、私の解釈では同じことを言っていると思う。


老子の教えは後に道教と言われるようになったが、「道」すなわち人間が採るべき行動の規範を示している。論語では人間を君子と小人の二つに分けているが、老子では上中下の三つに人間を分類する。上士、中士、下士の三つがこれだ。以下その定義である。

  1. 上士は道を聴いて努めて之を行う。
  2. 中士は道を聴いて存する如く無きが如し。
  3. 下士は道を聴いて大いに之を笑う。笑わざれば以って道と為すに足らず。

上士の定義は分かりやすい。人間の道を聴いて一所懸命それを行う人で、これは論語にいう「君子」であろう。中士は道を聴くと「存する如く」ああそうかなと思うのだが、「無きが如し」でなかなかそれを実行できない。最も面白いのは「下士」の定義である。大多数を占める「下士」達は、道を聴くと「そんな馬鹿な」といって大笑いする。大部分の人は下士であると老子は考えていたようで、大部分の下士達が笑わないようならそんなものは道ではない、と言っているのである。老子の布教に際しての苦労が感じられる言葉である。
「道」にはいろいろあるが今日本国民の大部分が忘れているのは、「道」の一つである「愛国心」であると思う。今「愛国心」というと大部分の人は「国家主義」と混同して大笑いするから、上記の定義にずばりあてはまる。

「憲法改正論」もそうだ。今日共産党書記長と社民党委員長の話をテレビで聞いたが、二人とも現行憲法は神から与えられた日本の国が絶対変えてはいけないものであるかのような口調で話していた。二人ともそんなことを考えている訳はなく、政府攻撃の方便として言っているのは明らかだが、それを聞いそう思ってしまう「国民」が少なからずいるのが問題なのである。現行憲法審議の際、共産党が大反対したのは歴史的事実だ。


政治の話になってしまい少し横道にそれたようであるが、本質的な話だと思う。常に自分のことだけでなく、自分の属する家庭、地域社会、企業、国そして人類全体のために少しでも役に立つことをすることは「道」の一番大事な点であると思う。 (1999.1.10記)