日本人よ、目を覚ませ(愛国論その1)

♪♪ あゝ玉杯に花受けて 緑酒に月の影宿し
   治安の夢に耽りたる 栄華の巷低く見て
   向ヶ丘にそそり立つ 五寮の健児意気高し
     ・・・・・・・・・・・・
     ・・・・・・・・・・・・
♪♪ 清き心のますらおが 剣(つるぎ)と筆とを取り持ちて
   ひとたび立たば何事か 人生の偉業成らざらむ
     ・・・・・・・・・・・・
私の最も好きな歌の一つ、一高寮歌である。
今の日本はまさに栄華の巷そのものだが、というのは嘘だが、栄華の巷と思っている人が大部分であろう。いや、そうではないと思っている人でも自分ではどうしようもないと思っていて、刹那的な喜びを求めて趣味とか自分の社会的経済的な栄達にうつつを抜かしている。

今日の読売新聞夕刊に「いじめ早期対策を」という記事が出ていた。学校でいじめがあったことを生徒の家に知らせたかどうかというアンケート結果の統計が載っていた。そんなことをしても何にもならない。対症療法といいたいが、対症療法にもなっていない。


根本は戦後の教育にある。それは何か。冒頭に掲げた一高寮歌の精神を教えなかったからだ。日本人の心はマッカーサーの3R政策(Revenge, Reform, Revive)でもののみごとに Reform されてしまった。戦前のものはすべて悪いと教えられ、今大部分の日本人はそう思っている。

勿論日本にも心有る人は多勢いて、最近いろいろその種の本が書店にあふれている。「国敗れてマッカーサー」という本が売れているらしい。私も読みたいと思ってあちこち探したが売り切れで、注文はしたがしばらくは手に入らないそうである。この本には要するに、マッカーサーの3R政策が彼が予想したよりはるかに完全な形で成功してしまったということが書いてあるようだ。マッカーサーも後に「やりすぎた」と反省したことはあまりにも有名である。


横道にそれそうになってしまった。一高寮歌の精神に戻る。
♪♪ 清き心のますらおが 剣(つるぎ)と筆とを取り持ちて
   ひとたび立たば何事か 人生の偉業成らざらむ
これである。明治における「人生の偉業」とは、社会のため、国のために役立つことであった。「国のため」というと直ぐ戦前の軍国主義に結び付けるのが、マッカーサー教育の成果である。違うのだ。最近のベストセラー、K.V.ウォルフレンの「なぜ日本人は日本を愛せないのか」には、国家主義と愛国心とは根本的に違う、と書いてある。今の日本人は大部分この二つを混同している。

私の言う「国のため」とはもちろん愛国心のことである。
チョット長くなってしまったので、この続きはまた書こうと思う。まとめると、


明治の人は国のためになることと個人の利益が一致していた。夏目漱石はお国に有用な人になることが人生の目的であると教えられ、その通りにして有名になった。戦後の人は「国のため」と教えることを禁じられたので、個人の利益のみを求めるようになった。有名になって多くの収入を得、人の尊敬を受けろ、と教えられたのが根本の原因であると私は思っている。 (1998.12.22記)