人はその才能を採用し、品行では採用しない

史記によると、漢の高祖のブレーンに陳平という人がいた。陳平は張良とともに高祖の謀臣として最も有名で、「張良・陳平」ともあるいは後世略して「良・平」ともいい、「良・平」とは知謀の人の意になっている。陳平は始め魏王咎(きゅう)、次に項羽に仕えたが何れもわけあって逃げ出し、紹介する人(魏無知)があって高祖(劉邦)の臣になった。紹介者が陳平の才を上手に紹介したので、高祖は陳平が項羽により遇せられたと同じ「都尉」という位を与え、即日自分の車に陪乗させて諸軍をめぐり陳平を諸軍の軍監としたことを告げた。

敵である項羽のところから逃げてきた男がいきなり自分達を命令する地位に就いたのであるから、諸将はおさまらない。数ヶ月たってから陳平の品行を高祖に讒言したのである。曰く、陳平は賄賂を取り、その上嫂と密通したと云うのである。実際彼は賄賂を取っていたし、美男子であったので嫂との密通の件もあるいは事実かもしれない。
これを聞いた高祖は烈火のごとく怒り、紹介者魏無知を呼んで糾弾した。ところが魏無知は次のように奏上した。

「臣が彼を推挙いたしました時に申し立てましたのは、彼の才能であります。今、大王が問題になさっているのは、彼の品行であります。当今の時勢、いかに品行正しい人物でも戦いの勝敗に役に立たずば、大王には何の魅力もございますまい。漢・楚たがいに勝敗を競っている今日、臣が奇謀の士を薦めましたのは、その者の計がおためになるかどうかだけを基準にして選びましたので、兄嫁を盗んだとか、賄賂を貪るとか、そんな品行上のことは少しも問題にしませんでした。」

これを聞いて高祖は「なるほど」と納得したそうである。


古来有能な人(英雄?)は色を好み金銭に汚い。我が国の歴史を見ても才能のある人にはよくスキャンダルがある。明治維新の後、山縣有朋が山城屋事件で江藤新平に糾弾されたとき西郷隆盛がこれを救ったのは有名な話であるが、西郷は上記の故事に倣ったのだと思う。

近頃漢学をやる人が少なくなってきたせいか、西郷隆盛のような大人物は出ない。スキャンダルに対する反応が激し過ぎる。皆、正義正義である。つい最近毎日新聞に、どなただったか忘れたが「汚職は国を滅ぼさないが、正義は国を滅ぼす。」という記事が載っていた。まさに我が意を得たり、という気がした。


今は国を挙げて正義の時代である。これでは国は滅びると、心ある人は嘆いていると思うよ。

蛇足だが陳平は、漢の天下統一後高祖が功臣のうち韓信など力あるものを次々と粛正する中にあって、張良とともによく自制して高祖の疑いをそらし、しかも長命であったので高祖崩御後の呂太后一派の専横にも耐え、呂一派粛正後宰相として孝文帝につかえた。しかし病を得て孝文帝2年に亡くなった。高祖崩御後ほぼ10年のことである。なお張良は陳平より数年前に病没している。  (上記史記の引用は、海音寺潮五郎の「中国英傑伝」によった。1998.7.16記)