敵である項羽のところから逃げてきた男がいきなり自分達を命令する地位に就いたのであるから、諸将はおさまらない。数ヶ月たってから陳平の品行を高祖に讒言したのである。曰く、陳平は賄賂を取り、その上嫂と密通したと云うのである。実際彼は賄賂を取っていたし、美男子であったので嫂との密通の件もあるいは事実かもしれない。
これを聞いた高祖は烈火のごとく怒り、紹介者魏無知を呼んで糾弾した。ところが魏無知は次のように奏上した。
「臣が彼を推挙いたしました時に申し立てましたのは、彼の才能であります。今、大王が問題になさっているのは、彼の品行であります。当今の時勢、いかに品行正しい人物でも戦いの勝敗に役に立たずば、大王には何の魅力もございますまい。漢・楚たがいに勝敗を競っている今日、臣が奇謀の士を薦めましたのは、その者の計がおためになるかどうかだけを基準にして選びましたので、兄嫁を盗んだとか、賄賂を貪るとか、そんな品行上のことは少しも問題にしませんでした。」
これを聞いて高祖は「なるほど」と納得したそうである。
近頃漢学をやる人が少なくなってきたせいか、西郷隆盛のような大人物は出ない。スキャンダルに対する反応が激し過ぎる。皆、正義正義である。つい最近毎日新聞に、どなただったか忘れたが「汚職は国を滅ぼさないが、正義は国を滅ぼす。」という記事が載っていた。まさに我が意を得たり、という気がした。
蛇足だが陳平は、漢の天下統一後高祖が功臣のうち韓信など力あるものを次々と粛正する中にあって、張良とともによく自制して高祖の疑いをそらし、しかも長命であったので高祖崩御後の呂太后一派の専横にも耐え、呂一派粛正後宰相として孝文帝につかえた。しかし病を得て孝文帝2年に亡くなった。高祖崩御後ほぼ10年のことである。なお張良は陳平より数年前に病没している。 (上記史記の引用は、海音寺潮五郎の「中国英傑伝」によった。1998.7.16記)