大学の「幼稚園」化を憂ふ

先日NHKの番組で、「大学生の"登校拒否"が多くなったので、その心のケアを大学が始めた」との報道があった。「ナニコレ」とびっくりした。戦後教育の乱れは遂にここまで来てしまったのか。

大体大学は「大学」であって、大学校ではないのだから、登校拒否ではなく「登学拒否」と言うべきなのだが、そんな事はどうでも良い。


この番組を見るまでもなく、今日本の「大学生」の大部分、即ち50%以上は大学を遊び場所と心得ていることは分かっていた。

何のために大学へ行くのか。それは「学歴社会」だから三流大学でもいいから出ておかないと、就職の際不利になると思っているらしい。大学も又甘くて、どんなに勉強をしない学生でもどんどん卒業させる。

試験で合格点を取らない学生はどんどん落第、即ち留年させればいい。彼らは勉強する気がないから講義には出ない。勉強する気がない学生は表裏2年ずつ、合計8年授業料を取れば、学生数が少なくなった大学は経営的に有利だと思うのだがどんなものだろうか。


バカにもチョンにも大学が安易に卒業証書を出すから、幼稚園生みたいな学生が入学し、教授が「どうやって講義に出席させるか」などという、大学教授の役割とはおよそ関係のない幼稚園か小学校の先生がするような仕事をやらされている。しかもそれが三流大学の教授ならまだ分かるが、なんと旧帝国大学であるから本当に情けない。

おそらくその学生は大学へ行く能力がなかったのだろう。両親が子供の能力も考えず、とにかく勉強をやらせたのに違いない。ただ受験勉強だけやって旧帝大に入った息子は、講義内容は勿論分からず、友達との付合い方も分からないので登学拒否したのだ。

今まで日本の社会は学歴社会と言われてきたが、それが急激に崩れつつあると言う事に、件の登学拒否生の両親は気がついていないようだ。


もっとも出世のために大学を出るというのは戦後始まった訳ではなく明治時代からだ。しかし戦前は大学に入る人は「世の中のためになる仕事をしよう」という気概があった。漱石はこれを「有用の人」と言っている。昔は世の中に何らかの役に立とうと思う人が大学へ行ったが、今は大学を出ていい会社に入り、きれいなお嫁さんをもらって一生面白く暮らすために、多くの人は大学へ行くようになった。

もっとも、このように考える人は戦前にも少しはいたようで、太宰治は「新ハムレット」の中でデンマーク王の侍従長ポローニヤスをして、その子レヤチーズをフランスの大学に留学させる際次のように言わしめている。(第1幕第3場)

まず第一に、学校の成績を気にかけるな。学友が50人あったら、その中で40番くらいの成績が最もよろしい。間違っても、一番になろうなどと思うな。ポローニヤスの子供なら、そんなに頭のいい筈がない。自分の力の限度を知り、あきらめて、謙謙に学ぶ事。これが第一。つぎには、落第せぬ事。カンニングをしても、かまわないから、落第だけは、せぬ事。落第は、一生おまえの傷になります。としとって、お前が然るべき重職に就いた時、人はお前の昔のカンニングは忘れても、落第のことは忘れず、何かと目まぜ袖引き、うしろ指さして笑います。学校は、もともと落第させないように出来ているものです。それを落第するのは、必ず学生の方から、無理に好んで志願する結果なのです。感傷だね。教師に対する反抗だね。見栄だね。くだらない正義感だね。かえって落第を名誉のように思って両親を泣かせている学生もあるが、あれは、としとって出世しかけた時に後悔します。学生の頃は、カンニングは最大の不名誉、落第こそは英雄の仕業と信じているものだが、実社会に出ると、それが逆だった事に気がつきます。カンニングは不名誉に非ず、落第こそは敗北の基と心掛ける事。なあに、学校を出て、後でその頃の学友と思い出話をしてごらん。たいていカンニングしているものだよ。そうしてそれをお互いに告白しても、肩を叩きあって大笑いして、それっきりです。後々の傷にはなりません。けれども落第は、ちがいますよ。それを告白しても、人はそんなに無邪気に笑って聞きのがしては、くれません。・・・・(以下略)
これは太宰が付け加えた部分らしい。当時の一つの考え方を皮肉っているのだろう。戦前も大学を出世の手段と考える人はいたことは明らかだが、カンニングをしても良いから、落第だけはするな。といっているところが面白い。日本の大学もアメリカのように、成績が悪い学生はどんどん落第させて卒業させないようにするのが、今の教育制度を改革する早道だという気がしてきた。そうすれば勉強のきらいな学生は大学へ行く事をあきらめるから、大学の権威も回復できるのではないだろうか。
最近話題になっている、教育勅語についてもふれたかったが、あまり長くなるのも問題なので、とりあえず本日はここまでとする。 (2000.6.10記)