思い出の人々

関 勝則(かつのり)


  1. 終戦まで

    関 勝則は私の兄、正確に言うと二番目の兄である。私には兄が二人と姉が一人いる。次は私の兄姉である。

    関 新一	 	大正15年 8月生
    関 勝則	 	昭和 4年 1月生   昭和35年5月病死
    宗像 町子	昭和 9年11月生
    (本人) 昭和13年12月生
    
    父、関 新兵衛は明治26年3月15日の生まれで、昭和18年3月22日に肋膜で死んだ。肋膜と言われているが肺癌でなかったかと思う。根拠はないが、親父は煙草をよく吸っていたとお袋が言っていたからそう思うのだ。 父は50歳と1週間で死んだ。お袋がよくそう言っていたので上記の誕生日は、それから逆算したものである。

    実は、私には姉と兄がもう一人ずついたが、二人とも赤ん坊のときに病気で死んだ。母の記憶によると次の通りである。

    関 洋子		昭和6年8月生	昭和7年2月死亡
    関 康則		昭和8年4月生	昭和9年2月死亡
    
    二人の兄は、小学校の成績は良かったが、家が貧乏だったので中学へは行けなかった。長兄は小学校卒業後高等小学校(高等科と言われて2年制であった)に進み、卒業後目黒電気に就職した。次兄は昭和18年3月高等科を卒業し海軍に志願入隊した。航空隊希望であったが、背が低かったので通信隊に配属された。

    横須賀の海軍基地へ志願入隊した次兄の家族面会日に、よく母に連れられて行ったのを覚えている。基地は久里浜にあり、今ではJRが通じているが、当時は京浜急行で浦賀迄行きそこから歩いて行ったような気がする。姉と行った記憶はあまりないので、たぶん姉は学校へ行っていたんだと思う。

    次兄は新兵から序々に位が上がり、水兵長にまでなった。ずっと横須賀にいたが、昭和19年の夏頃トラック島へ行くことになった。しかし出発予定日の直前、サイパン島が米軍の支配するところとなり、トラック島行きは中止となった。サイパンが墜ちるのがあと半月遅かったら、トラック島へ行きそのまま島の土になっていただろうと、よく次兄は言っていた。 復員後あれほど苦労し、その苦労が報われることなく死ぬのだったら、トラック島でお國のために名誉の戦死をし、靖国神社に祀られたほうが良かったのかも知れないと今でもよく思う。

    次兄は戦後昭和20年の秋伊豆大島から復員した。横須賀から大島へ移っていたのである。当時我が家は長野県の塩尻に疎開しており、私は塩尻国民学校1年生であった。 長兄はその年数えで20歳になったので海軍へ徴集されていたが、次兄と前後して復員している。又、塩尻の叔父(真嶋 麟 氏:母の末の弟)もそのころ支那から帰ってきていた。叔父は支那から苦労して象牙の麻雀牌を持ってきた。 (この麻雀牌は、三郎叔父----塩尻の叔父のすぐ上の兄----が麟叔父に頼まれて本の間につめて持ってきたという説もある。)

    次兄が大島から復員したとき、お土産に海軍の毛布、缶詰め、お菓子等を沢山持ってきた。当時、食糧事情、衣料事情が厳しかったので、このお土産は我が家にとって大助かりであった。

  2. 塩尻時代

  3. 深川時代

  4. 再び練馬へ

  5. 死の腎臓病

    よく覚えていないが、1955年前後である。ある時次兄の目の縁が腫れぼったいのを母が見つけ、明くる日次兄は隣の駅の近くの何とかいった眼医者に行ったところ、「ものもらい」だといわれ目薬をもらってきて1ヶ月位つけていたが、一向に良くならないので別の医者(内科だったと思う)へ行ったところ、腎臓病だといわれた。しかも急性から慢性に移りつつあるということであった。

    という訳で不幸にして次兄は慢性腎臓病になってしまった。ネフローゼという両方の腎臓が悪くなる悪性のもので、手術して片方取れば良いという訳にいかなかった。その後4〜5年次兄は入院退院を繰り返して死んだのであるが、件の眼医者のことを生涯うらんでいた。あのやぶ医者へ行かなかったらなあ、と何十回何百回聞いたか分からない。

    次兄の入院中は私もよく見舞い、というか洗濯物を持っていったのであるが、特に記憶に残っているのは私が大学に合格した日、発表を見たその足で江古田の病院へ報告にいった時である。同室の5人からいっせいにおめでとうといわれてびっくりした。次兄の説明によると、(当時東大入試同格発表は駒場で夜中の12時にやられていたのであるが、確かNHK第2放送で全合格者の名前を夜中に放送していた) 次兄はこっそりイヤホーンで聞いていたが、当時の枠は約2000人で、文1文2理1理2の順で発表するので理1を受けた私の名前が出たのは1時を過ぎていた筈である。私の名前が出たとき部屋中から「あった」という声がした。有り難いことに同室の人は皆ラジオを聞いていてくれたのである。

    次兄が亡くなる前の晩、私は寝ずに看病した。たまたま私の番だったのである。とても苦しそうだったので「苦しい」と聞くと「うん、苦しい」と答えた。次兄は我慢強く、それまで私の前では苦しいとか、痛いなどと言ったことはなかったので、よほど苦しかったのだと思う。その翌朝次兄は亡くなった。

    次兄が腎臓病になるのが15年いや10年遅かったら、血液の透析を受けて今でも生きていたと思う。当時もあったのかもしれないが、保険は当然きかず貧乏な我が家では無理であったことは明らかである。